2010-07-23 : 00:15 : ueta-fukuda
色気は本来無意識のものであるから、生まれつきそれが備わった人と、そうでない人とがあって、柄にない者がいくら色気を出そうと努めても、唯いやらしく不自然になるだけである---生まれつき色気のある人は勿論、たといそれが乏しい人でも、心の奥にある愛情(あるいは欲情)を、出来るだけ包み隠して、一層奥の方へ押し込んでしまおうとする時に、かえってその心持が一種の風情を帯びて現れる---谷崎潤一郎「恋愛及び色情」。
院長コメント: 我といふ人の心はただひとりわれより外に知る人はなし---文豪・谷崎潤一郎(1886‐1965年)が7月24日東京日本橋に誕生。谷崎文学にはあまり縁がありませんが、随筆集には昔から親しんでいます。色気についての一考察ですが、包み隠すとか押し殺すとかいった心情が希薄になった現在の日本。積極的自己主張が美徳と勘違いされる物質主義社会の中では、色気という日本人固有の風情が消滅するのは自然の成り行き。
2010-03-28 : 00:45 : ueta-fukuda

その夜も亦、新築の立派な市民会館で、「今日は、結構なお花見をさせて戴きまして」と言って、文化講演とやらには全くそぐわない気持ちになってしまった。外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶枝を圧して低し、というような月並みな文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。なるほど、これはかなり正確な表現に違いない。もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば。私は、そんな事を思った。何かそういう気味合いの歌を、頼政も詠んでいたような気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思いだせない。花やかへりて我を見るらん、---何処で、何で読んだか思いだせない。
院長コメント: 花見の季節を迎え、小林秀雄の名文「花見」からの抜粋(「新潮」昭和39年7月号)。頼政は、平安時代末期の武将・歌人の源頼政(1104-80年)。小林秀雄が思い出せなかったという歌は、「いりかたになりにけるこそ惜しけれど花やかへりて我を見るらん」。「いりかた」は夕暮れと晩年をかけたもの。若い時代は、欲望の曇った眼で美しい花を眺めていたが、その美しい花も自分を見返していたことに年輪を経た今きづく。そして今は、花を見て、花に見られる感が深い。粋な世界を知り尽くした老将の澄み切った境地!?
2010-02-14 : 00:52 : ueta-fukuda

灰いろの抽象の世に住まんには濃きに過ぎたる煩悩の色
院長コメント: 1921年から29年にかけてパリに留学し、ニーチェ、ベルクソン、ハイデッガーから思考方法を学んだ哲学者・九鬼周造(1888-1941年)が2月15日東京に誕生。その名著「いきの構造」は帰朝後の1930年雑誌「思想」に発表された論文。その草稿は、1926年留学中のパリで既に完成。九鬼の余技の域を出ない上記の短歌は、「いきの構造」の草稿が成る前年の1925年に「巴里小曲」として雑誌「明星」に寄稿されたもの。灰いろの 抽象の世とは、哲学的形而上的世界。煩悩は仏教的意味を脱色され、形而下的世界、すなわち日常生活を活気づける洗練された感覚的・官能的欲望や快楽を内包。
2009-12-23 : 00:02 : ueta-fukuda

昨年の今日、僕は「トリスタン」の劇詩を完成して、貴女に最後の幕をお届けしました。貴女は僕の手を引いてソファーの前の椅子のところへ連れて行って、僕を抱きしめてこうおっしゃいました、「もう私にはこれ以上の望みはありません!」と。(以下略)---「ワーグナー書簡」 ヴェネツィアにて、1858年9月18日。
院長コメント: ヴェーゼンドンク歌曲集(Wesendonck Lieder)は、ワーグナー(1813-83年)が、楽劇「トリスタンとイゾルデ」と並行して作曲した連作歌曲。当時のパトロンの夫人、マティルデ・ヴェーゼンドンク(Mathilde Wesendonck, 1828-1902年)の詩に作曲。ワーグナーとマティルデは逢瀬を重ねており、それが結果的に「トリスタン」という官能的音楽を生み出します。歌曲集は、「天使/止まれ/ 温室にて/ 悩み(心痛)/夢」の5曲より構成。 マティルデの誕生日である1857年12月23日、室内オーケストラにより窓越しに聞こえるように演奏されました。この歌曲が初演されて152年を経過。北欧の名花フラグスタートとクナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルという夢の顔合わせによる演奏が残されています(英デッカ、1956年ステレオ録音)。
2009-07-24 : 00:24 : ueta-fukuda

ひとたび創作熱が衰え、芸術的感興が枯渇してしまったら、老境に及んでの鰥寡(かんか)孤独な生活ほどみじめなものはないであろう。尤も、盛んなる体力と飽くことを知らぬ情欲とがあればまた紛れる道もあるが、日本の文人はこの方面において西洋人ほど強靭でなく、じきに疲れたり覚めたりする---享楽主義者が享楽に疲れるようになれば、大概はニヒリストになるのが落ちであるが、氏(荷風)もかくの如くにしてその当然の経路を辿られたかと思われる(谷崎潤一郎「つゆのあとさきを読む」、昭和6年「改造」)。
院長コメント: 1931年5月22日、雨、小説の稿を脱す、仮に「夏の草」と題す(荷風「断腸亭日乗」)。永井荷風(1879-1959年)が脱稿した小説は、現在「つゆのあとさき」と呼ばれているもの。実際に梅雨の時期に執筆した小説というだけの不精な命名。谷崎は「つゆのあとさき」を、純客観的描写を以て一貫された、何の目的も、何の主張もそれ自身のうちに含んでいない冷たい写実的作品と評しながらも、この作品は齢五十を越えてからの荷風の飛躍を示しており、敬愛する先輩荷風の健在ぶりを喜びました。
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